他人から嫌われる想像が止まらない日。

 

社会不安障害なんだろうなぁと思うのですが、高校生くらいのころから『自分の一挙一動が奇妙である』『自分の奇妙さが他者から不気味がられている・変に思われている・不快に思われている』という妄想・想像が止まらない日があります。

たいていが低気圧の日、生理前、生理中だったり、台風の直前だったりで、外的要因が元にそうなっているのは分かるのですけどね。

 

ADHD気味であることから、他者とは違う・他者と同じではない・同じになれない・なんか自分は変だと思い続けてきました。

人間の集団のなかにおいて自分は異物だという思いをずっと抱いて生きてきました。

その気持ちから解放されるのは一人でいるとき・誰かと二人でいるときだけでした。

 

いったい何をどうしたらいいのか自分でも分からないのですが、

天気の悪い日などに『自分の行動や雰囲気は奇妙だ。奇妙だから他人を不快にさせている。浮いている。変だ』という思いに囚われることがあります。今日もそうでした。

 

『自分がどう思われるか』にこだわりすぎている、自意識過剰、それはそういうときの自分の状態について正しい指摘だと思います。けれど、たぶんなんですけど、本当に私はちょっと変なんだと思うのです。動作とか、言葉とか、よっぽど普通に合わせないと、動きが妙に俊敏になったり声の大きさの調整ができていなかったり、身体の使い方が変だったり、色々普通の人とは違うのです。誰も認めてくれないかもしれないけどたぶん事実なのです。

私は小さい頃からそれに気づいていて、必死に普通に合わせて生きてきたのです。

自分が『奇妙』だと悟られないように。自分が劣っている(不器用・どんくさい・不注意・社会性がない)と悟られないように。

頭の回転が速くなくて、手先が不器用で、どんくさくて不注意で、そういう劣った部分をカバーできるように努力してきたのです。

いい人であるのも努力家であるのも、ただ能力の劣性部分で他人に迷惑をかけないように、他人に嫌われないように、それだけのためなのです。

他人に自分が奇妙であることを隠そうと努力してきました。そして疲れ切っていました。

 

家族や親友ほどに近い人間は、精一杯の微細な努力の上にある『普通の私』を見て「気にしすぎだよ」「自意識過剰だよ」と言うのです。

『ちょっと変だけど普通の私』はそれを維持することが時々難しくなるのです。そういう日は不安になり、頭のなかで妄想がうずまき、その異様な雰囲気はきっと周囲を不快な気持ちにさせているのです。

 

人間のなかに入るたびに、自分の奇妙さを調整する一生なのだと思います。

それが嫌だから、疲れるから、一人でいたいのだと思います。

私はなぜ自分が奇妙であることをこんなにも恐れるんだろう。

私はなぜ自分が生きているだけで他人を不快にさせると思うときがあるんだろう。

 

イミテーション・ゲームという映画を見た時に、主人公であるアラン・チューリングがまさにこういう思いを抱いて生きているように感じて、彼の一生を思って涙したときに、自分自身が救われるような気がしました。彼を思って泣いているとき、彼の存在を知ったとき、理由も分からないただ感じてきた苦しみによって、生きる希望になるような心の動く瞬間が与えられたのです。苦しみを知っているから心が動き、その感動が生きていく理由になるほどの体験になるって、変な順序だなぁ。人間って変ですね。

キャリ・フィッシャーの「私たちは心を打ち砕かれることがあります。でもそれを拾い集めて作品を作るんです」という言葉をきくと涙が出るのはそういうことなのだと思う。

先に苦しみがあった。でもその苦しみを知っているから、生きる希望になるほど心が動いた。その感動を知ったから生き続けている。