ある悪人はなぜ愛されるのか

 

読みかけの本や見ている途中のドラマがあるときは、それらがないときと全然違います。

はやく続きを読もう、はやく続きを見ようと思って、それ以外の何かをしている時間に意味ができるような。

なんとなく着手するのを避けていた物事に取りかかる弾みもつきます。

 

それとは逆に、なんの本も映画もドラマを見ていなくて、興味のあるものが何もない時は色々なことが滞ります。

常になにか燃料があるほうがいいタイプの人間のようです。

 

ちなみに最近の燃料はマインドハンター、その繋がりで今は『平気でうそをつく人たち:虚偽と邪悪の心理学』を読んでいます。

怖いものみたさのような、理解できないものに対する興味のような、あまり深く影響されるとよくないと思いつつも、悪や邪悪というのはどこか興味を刺激します。

『好奇心とは猫をも殺す』『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ』

この言葉を心の端に置きつつ、読書を進めたいと思います。

 

学生時代に書いたレポートを紹介して今日の投稿を終わりにします。

拙いですが今でも時々読み返してしまうやつです。

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ある悪人はなぜ愛されるのか

現実世界ではなく物語において、悪を行う人物が鑑賞者に愛されることがある。悪人が愛されるというのは、一見するとなにかおかしいように思える。しかし、よく考えると、ある条件を有した悪人を愛してしまうのは、おそらく多くの人にとって当然のことなのである。このレポートでは、ある悪人はなぜ愛されるのかについて述べる。まず、どのような悪人が愛されているか・愛されている悪人はどのような意味で愛されているかについて示し、次に、鑑賞者はどのような感情を経てその悪人を愛するに至るのかについて述べる。
愛されている悪人とは、利己的な目的のために心理的抵抗なく他者に危害を加えることができる人物である。エーリッヒ・フロム(1965)はサディズムについて次のように述べている。

他人あるいは他の動物を完全に支配する喜びは、サディズムの衝動の本質以外のなにも のでもない。この考えを明確にするもうひとつの方法は、サディズムの目標は人間を物体に、生物を無生物に変えることであるといえばよい。
(エーリッヒ・フロム(1965)『悪について』p.31)

利己的な目的のために心理的抵抗なく他者に危害を加えることができるのは、他者を物体と見なしているからであると推測できる。他者を自分と同等の人間ではなく物体と見なしているため、道具のように利用したり壊したりすることに躊躇がないのである。また、本当は人間である他者を、物体のように見なすだけではなく、実際に物体のように扱うには、他者に比べて知力や腕力において卓越した能力を有している必要がある。このことから、利己的な目的のために他者に危害を加えることができる人物とは、他者を物体として見なしている卓越した能力を有した人物であると言い換えられる。
物語の登場人物への愛によって、その人物の行動が気になるという感情やその人物が気になるためにその物語を鑑賞するという行為が、鑑賞者に引き起こされる。こういった形の愛の言い表すために、リチャードソン、ボウデンの『キリスト教神学辞典』の言葉を借りる。『キリスト教神学辞典』では、愛について次のように定義されている。

世俗的にも神学的にも愛という言葉には三つの要素が読み取れる。第一に価値であり、それは愛の家にもともとあるものと見なされるか、愛には価値が付与されなければならないとされている。第二に親密さないし一体性であり、それが実現されたものまたは求められるのが愛の一つの要素とされている。第三に配慮であり、仕え合う中で実際に相互になされるものであるとされる。
(リチャードソン/ボウデン『キリスト教神学辞典』p.15)

鑑賞する価値をその人物に付与するという意味で、鑑賞者は物語の登場人物を愛するといえる。登場人物への愛には、鑑賞する価値の付与という第一の愛の要素が読み取れる。
では、鑑賞者はなぜその悪人を愛するのか、どのような感情を経てその悪人を愛するに至るのかについて述べる。鑑賞者は、悪人に共感し悪人を否定することで、悪人を愛するようになるのである。悪人の行為を否定していながら、悪人に共感していることで、悪人の行く末を鑑賞したくなるのである。
悪人に対する共感と否定とはどういうものか。鑑賞者は悪人の利己的な考え方に共感するのである。自分本位な考えを一切持たないという人間はいないであろうことから、悪人の利己的な考え方に対して、一切共感しないという人間はいないといえる。ただし鑑賞者が共感するのは、悪人の利己的な考え方であって、利己的な考え方によって導かれる行為ではない。「食べたいから店のものを無断で食べる」「うるさいから周囲の人間を腕力で黙らせる」というような悪人の行為は否定するのである。しかし、「食べたいから食べよう」「うるさいから黙らせよう」という、悪人の行為を導いた考えには多くの人が共感するのである。
悪人に共感し悪人を否定することで、なぜ悪人を愛するようになるのか。言い換えると、悪人に共感し悪人を否定することで、なぜ悪人の行く末を鑑賞したくなるのか。それは、普段鑑賞者が自発的にもしくは無理に我慢している行動を、悪人が一切我慢せず行うからである。鑑賞者は、共感によって自分と悪人を重ね合わせる。そして物語の悪人が迎える結末を知ることで、普段自発的にもしくは無理に我慢している行動を本当にやってみたらどうなるのかという疑問の答えを知ろうとするのである。普段自発的にもしくは無理に我慢している行動を本当にやってみたらどうなるのかという疑問の答えを知りたいという思いが、悪人の行く末を鑑賞したいという思いすなわち愛を引き起こしている。
鑑賞者は、悪人の人を人と思わない行動を否定している。鑑賞者が普段そのような行動をとらないことからそういえる。しかし悪人の利己的な考え方には共感する。自分が普段しないことをする自分として悪人を見ることで、悪人を愛するようになるのである。
さらに、悪人の有する卓越性によって、鑑賞者は、自己とは違う存在としても、悪人を認識する。鑑賞者は、何度も悪人の知力や腕力における卓越性が披露されていくうちに、悪人は自分とは違う存在だ・卓越した能力をもった存在だという印象を強く持つようになる。その印象が強くなることで、上に述べた悪人へ共感しているという自覚が薄れる。人間離れした知性と腕力を有した悪人を、自分と重ね合わせているとは思わなくなるのである。鑑賞者は、卓越した能力を有した悪人に対して畏敬の念を抱いている自分を感じることはできる。オットー・フリードリヒ・ボルノー(2011)は畏敬について次のように述べている。

我々はしかしまた、人間に対して(それがここでは特に話題とすべきである)畏敬の念を抱くのであるが、しかも我々が何らかの仕方でふつうの人間関係から際立っていると感じるような人間に対して特別に畏敬の念を抱く。
(オットー・フリードリヒ・ボルノー(2011)『畏敬』p.56)

悪人に対する愛を生じさせている共感を、卓越した能力に対する畏敬が隠してしまっているといえる。しかし、悪人に対する共感と否定が愛を生じさせていることを思えば、なぜある悪を愛してしまうのかは明らかである。
悪人が愛されるというのは、一見するとなにかおかしいように思えるが、ある条件を有した悪人を愛してしまうのは、おそらく多くの人にとって当然のことなのである。